陰陽五行説の歴史

陰陽思想と五行思想はもともと別々に生まれ、戦国時代の中国で一つに結びつきました。それが日本に伝わり、暦や年中行事、さらには陰陽道として独自の発展を遂げます。
このページの目次
1.古代中国:陰陽と五行の誕生
陰陽の考え方は、戦国時代から漢代にかけてまとめられた易の解説書(十翼、とくに繋辞伝)で理論化され、易占と深く結びつきました。一方、五行は『書経』洪範篇に「一に曰く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土」と記されています。
紀元前3世紀ごろ、斉の思想家・鄒衍(すうえん)は、王朝の交代を五行の循環で説明する「五徳終始説」を唱えました。このころから陰陽と五行が一体の思想として語られるようになります。漢代には董仲舒らによって儒教と結びつき、国家の制度や暦法の基盤となりました。
2.日本への伝来
陰陽五行説は、6世紀ごろに仏教や暦法とともに朝鮮半島を経て日本へ伝わりました。『日本書紀』には、602年に百済の僧・観勒が暦本・天文地理書・遁甲方術書をもたらし、書生たちに学ばせたと記されています。
7世紀後半には、天武天皇のもとで陰陽寮(おんようりょう)が設けられました。陰陽寮は占い、天文、暦、時刻(漏刻)を司る役所で、陰陽師はそこに属する国家公務員でした。
3.平安時代:陰陽師の活躍
平安時代になると、陰陽師は貴族の生活に欠かせない存在となります。方角の吉凶を避ける「方違え(かたたがえ)」や、物忌み、祓えなど、日々の行動が陰陽道によって決められていました。
なかでも安倍晴明(921〜1005年)は伝説的な陰陽師として知られ、子孫の安倍氏(のちの土御門家)は、賀茂氏とともに代々陰陽道を担いました。
4.江戸時代:暦と庶民の暮らし
江戸時代には、1684年(貞享元年)、渋川春海が作った日本独自の暦「貞享暦」が採用され、翌1685年から使われました。暦には吉凶を示す暦注が書き込まれ、庶民も庚申待や甲子の日、恵方などを意識して暮らしていました。丙午の迷信が広まったのもこのころです。
5.明治以降
1870年(明治3年)に陰陽寮が廃止され、1872年(明治5年)の改暦により、翌1873年1月1日から太陽暦(グレゴリオ暦)が使われるようになりました。しかし干支や二十四節気、九星、六曜などは現代の暦やカレンダーにも残り、今なお私たちの暮らしに息づいています。
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